昭和56年4月19日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
第89節 此方の道は傘一本で開くことができる。
※初代親先生が、本か何かを出されて、それを二代親先生(当時若先生)に読むように言われる・・・「新聞に何か論説をちょっと読んでもらいますから、よく聞いて下さい」。
「大谷の地にも口そよぎ、春の訪れを向かえる。本部広前の大祭を心こめてお仕え申し上げた我々信奉者。いよいよ、これから各地教会で、大祭を仕え奉る。天地金乃神様への御礼の御祭りである。天地の在りと在る、なべての者を生かし、育みたまう親神。ただひたすらに、人の助かり、立ち行く事を願わせてたもう生神金光大神をこの世に差し向けられ、人々の信心はさらに、深く広く、求めたもう親神。その神の恵みに何を持ってか、我々信奉者、お礼申し上げる時であろうか。
その有り難さを我らが命で受け、感じ取った時、もはやその御礼の言葉に絶するであろう。絶しつつもなお、申し上げずにおれぬ事である。ただただ、有り難うて、有り難うてと語り入れられし前教主金光様。その御礼の足りぬ、お詫びばかりをしておりますが、勿体無い事でありますと、御礼がお詫びとなって行くまでの、命からの底深い感動を持って述べられたのは、昭和11年の事であった。
かつて、教祖金光大神様が、和田やすべえ師に、ただただ、生神金光大神天地金乃神様有り難うございますという心さえあれば、それにてよろしいと、簡潔に語り示された御徳。それは、本教信心の底流にあるものであり、貴重である。その御礼を心の軸として展開する御取次ぎによって、どれほどの人々が助けられ、自身の生きがいを見出して行ったことであろうか。
窮乏、病苦のどん底に喘ぐ時、愛と言うには、あまりにも酷い、我欲のぶつけ合いに悩む時、(犬?)のごとく、欲情の身に滾る時、名誉、地位への飽くなき野心を抱き、権謀述作に明け暮れる時、妄想、雑念に身を持て余す時、その時、あの結界取次ぎの座の前に身を置く。その座にあって、御礼の心に結集する前教主金光様。
その光に照らされ、我が身のそのあるがままが見せしめられ、いよいよ我身が助かっていないもの、助からねばならぬ者、一人もの一人では助からぬものである事を自覚する。その光はひるぎなく、深く、清く、暖かい。ここに至って、初めて人間として生きる新たな願い。自己の真実の願いというものが生まれて来る。ただただ、天地金乃神様と共に、あいよかけよで生きる他、助かる術なき身の自覚に立った。それは、願いである。
現教主金光様も日々御礼の心持て一筋に、御取次ぎをお進められてある。何という有り難い事ではないか。この心が、この道の真実として、我々が理解申し、そうありたい。必要な事と思うだけでなく、それを自身の日々の信仰倫理として頂き、けいこに勤め、実践としてその一歩を踏み足して行かねばならない・・・」。
初代→皆さん、只今の論説です。今の現代の金光教の、まあ、言うなら最高の頂き方。そんなものを感じます。ところが、これを皆さんが聞いて下さって、合楽理念の信心、合楽の頂いておる信心というものが、確かに跳んでるという事を感じます。ね。あの、跳んでるというのは、飛行機の飛じゃないですよね。あの、跳んでる。ね。まっ、大変特別に優れておるという意味なんです。
ここまでのところが、私どもも、まあ、そうだと、こう思うて参りました。最後のところの( )しとると、もう人間の助かりようのない、いわば模様が、この、まあ、立派な論説に説かれてある訳ですね。人間が持っておる、言うなら我情とか、我欲とか。様々な盆情?といったようなものとの苦しみ。それを、例えば三代金光様は、有り難うて有り難うて。ね、お礼が足りない、お詫びをしておりますと、もう、金光様のお言葉を今にして思うのに、確かに跳んでおられるです。ね。
一切を願い以上のおかげを受けてと仰っておられます、そのおかげの、お礼の足りないお詫びというの。私は最近感じる事は、私もそれを思うです。もう、私にはお詫びというものが無くなった。もう、ただただ、もう限りない夏の、それこそ夏雲のこう、ね、入道雲がこういっぱい、こう広がってるでしょう。のように、願いはもう、それこそ雲のように広がって行くばかり。
そして、頂くそのおかげの有り難さのお礼を申し上げるばかり。ただお礼を申し上げてはおるけれども、願いを申し上げておるけれども、願いの不行き届きな事、おかげを頂いておるお礼の足りないこと。ね。その、お礼が足りない事、そこに、ただお詫びがあるだけ。私は今まで、なら、今の論説を読ませて頂いておって、もう本当に、なるほど、これでは本当の助かりにならない。今日の御理解じゃないけれども、この方の道は傘一本で開く事が出けると、もう簡単に説いておられます、あの、説いておられます。
ね、それを、私どもが簡単に頂ききってないところにです、お礼を申し上げねばならないところに、苦しんだり、悩んだり、もう自分は助からんといったようなものを、今の論説の(最後の日記?)に感じます。ね、合楽ではそれを、すべての事に御の字をつけて。ね、人間が人間らしゅう生きる生き方というものが、いかに本当であったかという事を説く訳です。ね。合楽理念に基づく助かりと、今、最高、教団ではもう最高論説だと思うですね。
けれども、これでは、やはり傘一本で開ける道という、合楽で言われるいと簡単にね、申しております。簡単です、明瞭です金光様の御信心は。しかも、おかげが確かです。これは合楽の、まあ、言うならばキャッチフレーズのような表現ですけれども。なら、教祖様も、今ここで仰っておられる。この方の道は傘一本で開ける道と、もういと簡単に説いておられます。ね。
ところがね、実際が今の論説に聞かれるような在り方で、金光教の信心を進めたところで、いと簡単に生まれない、安心の心が生まれない。ただ、どこまでもお詫び、お詫び、お詫びをするより他はなかて、自分の、そのお詫びをしなければならない事に、合楽ではお礼を申し上げるという生き方を説く訳です。ね。ですから、そういう心が開けて来る時にです。ね、生まれて来るのが安心。
昨日のお月次祭に、加藤さんの例を取りましたが。加藤さんの妹婿さんとの対談です。もう、何十億という売上をされる、大きな商社の、まあ、偉い方だそうです。もう、毎日毎日眠られんような心配があるという心配を聞かれて、その心配の一つひとつ聞かれながら、加藤さんが言うておられる事は、本当言うたら、お礼申し上げる事ばっかりなのにと思うたち言うた。だから、それを話したら、そげな事があるはずはないて。
そげな事で、例えば人間が生きて行かれるなら、( )。その結構な事はないという結構を、いわば加藤さんは頂いておられる訳です、信心による。いわば、普通の人ならば、もうお詫びしたり、難儀をしたり、どうしたならばとこう、眠れんように思える事を、もう、むしろ、お礼を申し上げておられるのですから。ね。その、お礼心に、を持って受けられるおかげというのは、いわば、今、加藤電気に現れておる、もう特別な働きというものは。ただ、聞いておっただけでも恐れ入るばっかり。
そういう信心が、どこから生まれるかと言うと、例えば日々のお届けの内容が、どうぞ今日も一日、千日のお礼をと言うておられます。一日千回の喜びをと願っておられます。もう、とにかく、不平とん、不足ども言うておる暇がないのである。そして、心の中には、言うなら平生心です。その御兄弟のお話を聞きながら、あれは、私ならばお礼を申し上げて喜んならん事を、眠れんように心配しておる。
私は今の、この論説をね、あの、一遍聞き、これを読み終わって、これ何回も、何回も私は読んでもらいました、ここんところ。そして、今のあの、金光教の在り方と、いわば合楽の信心があの、の違いを感じました。そして、合楽の信心は跳んでるなという感じです。ですから、やはりこういう風な生き方を本当な事として、または実際、嘘ではないですから。けれども、これでは言うならば、傘一本で開けるような道は開けて参りませんです。
合楽で言う、ね、簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かです。いわゆる教祖様の今日の御理解じゃないけれども。ね、この方の道は傘一本で開ける道と、いと、それこそ簡単に説いてあります。だから、お互いがその気になって合楽理念を行じたらです、いと簡単に、例えば千回の喜びといったようなその事に取り組んだらです。ね。本気で取り組んだらです。ね、神様を昨日から頂いておりますように、信じずには信心、信じるなと言われても信じぜずにはおれない働きが生まれて来るんです。ね。
そこに、神様のお喜びがあり、私どもの喜びがある。喜びと喜びが、言うなら一体となって合楽世界の顕現とはなるのです。ね。どうぞ一つ、そういう、んなら、確かな、確かに傘一本で開ける道と言われるように、簡単です、明瞭です、おかげが確かですといったような内容を日頃頂いておるのですから、それをやはり行じなかったら、ね、いやあ、そんな訳にはいかん、簡単にという訳にはいかんという事になるのです。ね、問題はその気になって、修行。
まあ、これは私が申したら、実はおかしいんですね。合楽の信心が跳んでるて。けれども、跳んでる証拠に、合楽で現れておるおかげというものは、やはり普通では、ね、話のような話とでも申しましょうか。ね、そういうおかげが現れておるという事実から申しましても、いよいよ合楽理念の、いよいよ実験実証者にならなければならんという事を思います。どうぞ。